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[95] 自伝・阿部定の生涯 その2
Name: DENMAN (HOME) E-MAIL
Date: 04/28 05:18
自伝・阿部定の生涯 その2


丹波の篠山を逃げて神戸に住んでからは吉井信子と名乗って二週間ばかりカフェーの女給をして居ましたが前借のこともあるし小遣にも困り、何とか金が欲しいと思い、店に来た客に月100円の収入ある商売はないかと聞いたところ客が
「よい商売がある。遊んで居て気が向いてから商売を始めたらどうか」と言いました。
その男は高等淫売の客引をしている人でした。
大体その見当はついていましたから今更堅気になっても良い暮らしができるわけではないと思い、私もその気になってその家に行きました。
2ヵ月ばかりブラブラ静養しながら高等淫売を始めました。

ところが、その主人は私の稼ぎから今までの費用を差し引いて、なおピンはねするので仕打がヒドイから3ヵ月位で商売を止め、昭和7年28歳の時に大阪へ行き同じ商売をしました。
しかし、間もなく淫売を止め1年ばかり妾をしておりました。
その間、相手は3人変り毎月60円から100円の手当をもらっていました。

この頃から情事に快感を覚え一人寝は淋しくてなりませんでした。
妾では旦那の来るのが月に5回か6回なので淫売当時の好きな客2人ばかりとも時々関係していました。
金もたやすく入ったし暇もあったので遊蕩三昧の生活をするようになりました。
暇に任せて麻雀したり、宝塚へ遊びに行ったり、道頓堀へ出掛けたりして浮かれておりました。
賭博の事で警察に検挙されたのはこの頃です。

そこで謹慎する気になり小遣も400円もありましたから妾を止め、独りで大阪の住吉アパートを借り、本などを読みながら1ヵ月半位静かに生活していました。
しかし、男と関係を持っていないと気がイライラするので、当時お医者さんに診察してもらった事がありました。
お医者さんは「別に異状はない。そのような事は人間として当然ある事だから独身より真面目な夫婦生活をするがよい、それができないようであれば、精神修養の本を読んで気分を転換しなさい」
そう言われました。

28歳の秋頃、大阪で横浜の知人に会って両親が心配していることを聞き、急に帰りたくなって冬まで3ヵ月ばかり田舎の両親の所におりました。
大阪で大変良い人に世話になって居ると嘘を言って安心させ両親の肩を揉むやら新聞を読んでやるやら料理をしたりしてやりました。
出来るだけ親孝行をしたので親は喜んで、もう満足だから死んでも良い、とまで言ってくれました。

しかし、その頃田舎へ篠山から3人も私を探しに来たので親許に居られなくなり、再び大阪に戻りアパートで暮らしていました。
昭和8年1月、29歳の時、突然母が死んだと言う電報をもらいました。
丁度、麻雀に行って留守だったため3通も電報をもらってしまいました。
とりあえず、金だけ送っておき、荷物をまとめて大阪を引き払い、母の初七日の時に田舎に帰り墓参しました。
2週間程おりましたが篠山の事があるし、以前噂に上ったこともあって人に顔が合せられない気がし窮屈だったので東京へ行きました。
三の輪で矢張り吉井昌子と名乗って高等淫売をしました。

そのうち29歳の10月頃、日本橋区室町の袋物商の中川朝次郎(37歳)の妾になりました。
中川さんは私も好きでしたから毎日来てもらう約束で私は神田新銀町のおでんやの2階から日本橋区本石町の生花師匠の2階に間借し、毎月60円程もらっておりました。
30歳の正月父が病気だという知らせがあったので田舎に帰り、10日間位何も忘れて熱心に看病しました。
今でもこの時だけは本当の親孝行をしたと思っております。
父は「死ぬ時になってお前の世話になるとは思はなかった」と涙を流して喜んでくれました。
1月26日に亡くなりました。

私は父の形見として300円分けてもらい、間もなく東京に帰り矢張り中川さんの妾をしていました。
丁度その頃用事があって横浜に行き昔の友達に会ひ稲葉の娘が死んだことを聞きましたが稲葉の娘は仲良しでしたから稲葉の家に行きお墓参りをしました。
一旦絶縁した稲葉とこの時からまた往来するようになりました。稲葉家の暮しを見兼ねて指輪を入質して150円くれてやりました。

私が30歳の9月頃、中川さんが病気になり色々と私の事を心配してくれるので申訳なくなり相談づくで別れ、それから稲葉の家へ行き半月ばかりブラブラ遊んでおりました。
しかし、一人で居る事は淋しいし、そうかと言って別に手に職がある訳でもないので、また横浜市中区富士見町の「山田」という淫売屋で高等淫売を始めました。
その縁で一昨年の暮頃政友会の院外団という笠原喜之助の妾になりました。
ところが笠原は放埒で碌な手当てもくれず、愛情もなく私を獣扱いにし別れようとすると平身低頭して哀願するという品性下劣な男でした。
直ぐ嫌になりました。
それで、馴染の中川さんが恋しくなり昨年1月、電話で中川さんを呼出し浅草の上州屋で同宿したことがありました。

笠原とは何とかして別れようと思い、逃げ出すと田舎まで探し歩き、稲葉へお前が俺の妾になって居ることを話すとか世帯を持った費用を全部返せとか殺すとか言って脅すので困りはてました。
とうとう昨年1月末、名古屋へ逃げそれ以来、「寿」という料理屋に田中和代という偽名で女中に入りました。
この料理屋では女中は私一人だけで、とても真面目な店でした。

ところが昨年4月末のある晩、名前や身分は後で判ったのですが名古屋市会議員で中京商業の校長先生である大宮五郎さんが宴会の帰りに、他の料理屋の女中を連れて「寿」へ来ました。
大宮五郎先生のその女中に対する態度が誠に紳士的であり、どことなくキリッとしていたので初めて会ったのですが立派な人だと惚れてしまいました。
4、5日後、今度は先生一人でお出になり水菓子等を食べながら私の身の上話を聞きたがるものですから哀れっぽい調子で同情を惹くように、東京の生れだが9つになる女の子を残されて亭主に死なれ子供を育てるためにこんなことをしていると出鱈目を言ったところ、先生は子供に何か買ってやりなさい、と言って10円くれました。
良い人だと思い、ますます惚れてしまいました。

先生は4、5日後、また一人で和服で来ましたから私に気があるに違いないと思い子供の話をしながら先生の膝に伏して涙を流すと、「そんな所へ手をやってはいけない、男だから変な気持ちになる」と、言いましたからこの時だと思い、色っぽい様子をしてなお先生にもたれかかると、先生は私を抱きしめましたので、そのまま先生を倒して関係を持ちました。
その晩、先生は将来面倒を見てやってもよいから真面目にしておれと言いました。
その2、3日後、また先生が来たのでゆっくりお会いしたいと言うと、それでは鶴舞公園付近の松川旅館に行こうと言うので、店には一寸外出すると言ってその旅館に行き先生と一緒になりました。
その後は「寿」には帰らず、そのまま付近の「福住」という小料理屋に住み込みで働き始めました。

その頃先生と松川で一回関係しましたが、何となく名古屋が飽きたので昨年6月、先生には子供が死んだから東京に帰るが松川旅館気付で手紙を出すからと言い先生から50円もらって東京に帰りました。
当時、下谷に移った稲葉家へ行き10日ばかりブラブラ遊んでいましたが、元妾をした笠原が私を結婚詐欺だと告訴し、刑事が調べに来ました。五月蝿(うるさ)く感じたので、以前知り合った浜町の淫売屋木村博さんの所で、田中加代という偽名を使って働き始めました。
客席では田中きみと名乗って高等淫売し、大宮先生には木村方に居るから来て下さいと手紙を出しました。すると昨年6月中旬に、先生が木村方に私を訪ねて来ましたから先生には木村方は姉の家だと言い、その日は品川の「夢の里」へ行き2時間位遊び浅草で活動見物しました。夕食を一緒にとってから、その晩先生は名古屋へ帰りましたが、この時30円もらいました。

その後も私は木村方におりましたが主人の木村と関係が出来ました。
やがて内縁の妻、金子静の知るところとなり、焼餅をやき家の中がゴタゴタし始めました。木村は大変な道楽者で、正妻の秀さんは木村の道楽にほとほと嫌気がさして亭主と金子とを同居させ自分は近所に別居して居たのです。今度私と木村と関係が出来てゴタゴタしたので、見かねて正妻の秀さんが仲に立って二人を秀さんの二階に同居させてくれました。私はその時から淫売を止めました。

ところが昨年7月中旬のある夕方、金子静が大宮先生が来て居ると私を迎えに来ました。静さんの家に行くともう3時間も居るとのことでした。私は嬉しく、早速支度して先生と汽車で熱海に行き「玉の井」旅館に泊りました。先生は静さんから色々話を聞いたようでした。
「お前は淫売をしても人の亭主を取っても俺は驚かない。初めから良い事をしている女ではないと思っていたが何とか救ってやりたい、ぜひ真面目になれ。俺は名前こそ話さないがお前の将来は必ず引受けてやる」
そう言って、夜通し意見してくれました。
初め先生に対する気持は一時の浮気程度でしたが、非常な潔癖性で寝間での女の扱いもうまくはなく、面白くなかったので私は頼りなく思って居たのです。でも、今度もわざわざ私を尋ねて来てくれたのだし、万事親切で私と会うと誠心誠意私を良くしようと意見してくれるので、この時シミジミ有難く思いました。先生の気持ちに動かされて将来は真面目になって先生に頼ろうと決心し、翌日沼津まで送り涙で別れました。

この時先生から30円もらい私はそれ以来淫売生活からすっかり足を洗いました。東京では木村家には行かず、稲葉家の世話になり煙草も断とうと思って近所の御祖師様へお百度参りまでして禁煙のお願を懸けました。

大宮先生とは昨年8月名古屋と東京で10回程会い、今年の5月18日に石田吉蔵を殺した直後に東京で会ったのが最後です。でも、そのときまでに大宮先生だけでは物足らなかったので、元妾をした中川朝次郎さんとも前後六回浅草の上州屋に泊って関係していました。

話が前後しますが、昨年7月中旬に大宮先生と別れ、東京へ帰ってから稲葉家におりましたが半月程経つと先生に会いたくなりました。先生は胸に丸八という徽章を付けて居りました。その徽章は名古屋市会議員か市役所の役人印であることを知っていましたから調べれば判ると思い、8月中旬、名古屋へ行き駅前でたまたま新聞を見ました。すると「大宮市議渡米」という見出しで先生の写真が出ていました。この時初めて名前や職業を知り嬉しくなり、早速電話をかけ東築港の南陽館で先生と会いました。

先生は余程困ったらしく打ちひしがれており、
「どうして名前を知ったのか?」と言いました。
新聞を見たと言うと
「そうか」と頷き「俺は学校長であるだけにお前との関係が世間に知れると生きては居られない。ピストルで俺を生かすも殺すもお前の心一つだ。将来代議士になる心づもりだからそれまで温和(おとな)しくしていてくれ、代議士になったら堂々と尋ねて来い」と言い、その時私は先生と関係がしたくて側に寄ったのですが「今日はこれで別れよう、13日には東京へ行く」と言いました。先生は元気がありませんでした。私は小遣50円をもらっただけで東京へ帰りました。

先生が8月13日渡米のため上京したので、その日「夢の里」で会いました。10月下旬、先生が帰国することを知っていましたから先廻りして名古屋で待って居ましたが、先生は帰途東京に滞在したいため、私は一人で2週間も待ち呆けてしまい、300円以上も小遣を使ってしまいました。

11月11日にようやくの思いで先生に会いましたが忙しいからと言い一時間位で別れ100円頂きました。その時の約束で11月16日豊橋で会い一日ゆっくりして50円もらい東京に帰り、間もなく大阪で会った時身体に腫物が出来て困ると言ったら
「過去の荒れた生活が悪いのだ。梅毒だろうから草津へ湯治に行ったらいいだろう」
そう言って250円くれたので昨年11月下旬から今年1月10日頃まで草津に行っておりました。

草津に一度先生が来ましたが、私が煙草を吸わなくなったのを知って驚いておりました。先生は一晩泊りましたが布団2つ敷き、私が寄っても今日は疲れて居ると言い関係しませんでした。

その時、私に夫婦や女の道を話して聞かせ「夫婦は生活本意で、色事は夫婦の交りのためとは言え第二の問題である。男女間でも色事は第二でなければならない。心と心と触れ合って居ればそれで満足しなければならない。俺はお前を見ればそれで安心するのだ。お前は手を握っても直ぐ眼の色を変えるほど色情が強過ぎる。男女一緒に寝ても自制出来るぐらい修養しなければならない。俺は関係しないと思えば絶対関係しない」と言っていました。私は実につまらないと思いましたが、意志の強い立派な人だとも思いました。

翌日一緒に伊香保に行き泊り、先生はその翌日の昼頃に帰りました。私に100円小遣を置いて行きました。伊香保で先生から「お前はどことなく温和しくなり口の利き方も変った」と言われた時はとても嬉しく思い、今でも忘れません。私が草津を引き上げてから、今年の1月に京都で1度先生に会いました。

先生は以前から「お前は真面目になって何か商売を始めた方がよい、今年の暮からおでん屋のような小料理屋を始めるように今からどこかへ奉公して料理を習ったらどうか」と言っていたので私もその気になっていました。

草津から東京へ帰り荏原区上神明町の姉のタカの家や下谷の稲葉の家に居りましたが今年2月1日、新宿の紹介業「日の出屋」へ儲けは少くてもよいから真面目な所へ世話をして下さいと申込みました。中野区新井町×××割烹吉田屋を紹介してくれました。石田吉蔵(42歳)が主人でした。私は女中となって働き始めたのです。

今年3月3日、先生は上京して姉に聞き、電話で私に東京駅に来いと言ってきましたから飛立つ思いで一時暇をもらい、その晩先生と新宿の明治屋に泊りました。先生は頭をグリグリに刈っており、「今度3ヵ月ばかり東京に滞在し青年の気分で勉強する心づもりだから、その間はお前と関係はしない。その代り勉強が済んだら塩原へ連れて行こう」と言いました。
「貴方のように冷淡では私はやり切れません。1ヵ月も2ヵ月も男に接しないではとても堪(たま)らない」と言うと、先生は私に色男があるものと思い込んで居るらしく、それを信用しないでお前は現在俺の独占物ではないのだから何をしてもよいが、商売でも始めたら真面目にならなければならない。その時、色男があったら俺に話せ、人物試験した上でよければ仲介して夫婦にしてやる、妹だと思って死んでも世話をすると言いました。その時先生は私に50円くれて帰りました。

私は情交では先生一人で満足しませんでしたが、その真実味に感謝して今でも忘れる事が出来ません。石田に熱中した時、なぜ、先生を思い出さなかったのか?。。。と悔やまれました。

とにかく、その先生の話を聞き、これから時々先生と会えるし、塩原へ行くことが楽しみで吉田屋に帰ってから石鹸箱や化粧品を買ってその準備をしておりました。その道具を今度は刑務所で使うとは何という廻り合せだろうと思っています。

私が吉田屋の女中になってから段々主人の石田と懇意になり関係が出来ました。4月25日示し合せて二人で待合に泊り込むような仲になってからも、大宮先生と前後四回会いました。一度は4月29日石田と二人で多摩川の待合「田川」に泊っていた時、金に困ったので私が名古屋に行きました。旅館に一泊し、翌日、南陽館で先生に会い100円と旅費をもらい、来月5日東京で会う約束をし5月5日石田と尾久の待合「満左喜」に居た時、新宿の明治屋旅館で会い百120円もらいました。

次は5月15日やはり石田と尾久の待合「満左喜」に泊っている時東京駅で先生に会い、銀座で食事をし品川の「夢の里」で休息し50円もらいました。最後は5月18日石田を殺してから須田町の万惣の前で先生に会い、日本橋のそば屋に寄り大塚の旅館「緑屋」に行き2時間ばかり休息して別れました。

しかし、先生と関係したのは「夢の里」と「緑屋」に行った時の2回だけで、先生はいつも私の将来のことを心配して真面目になれと言うような話ばかりをしてくれました。
 
【阿部定事件予審調書に基づいて編集】

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